2017年10月25日水曜日

これからは『宿題やりなさい』と言ってるようでは駄目、子供の才能や能力を引き出す発育が大切。



村上春樹(著)『職業としての小説家』を読んでいます。

かなり前に読み終わっていますが、たまに読み返すことで、新たな気づきがあります。

先日の選挙でも教育無償化の公約が気になった方も多かったと思いますが、本書にも学校教育について、とても参考になる内容がありましたので、備忘録として残します。

誰もがあたりまえのように学校に通って膨大な時間を費やして教育を受けてきますが、その教育内容は社会に出て本当に役にたっている、と言えるの?と思うことがあります。

もう一度繰り返しますが、僕は学校という「制度」があまり好きになれませんでした。何人かの優れた教師に巡り合うことができて、いくつかの大事なことは学べましたが、それを相殺して余りあるくらい、ほとんどの授業や講義は退屈でした。学校生活を終えた時点で、「人生でもうこれ以上の退屈さは必要ないんじゃないか」と思えるくらい退屈でした。でもまあ、いくらそう思ったところで、僕らの人生において、退屈さは次から次へと、容赦なく空から舞い降り、地から沸いて出てくるわけですが。


私も子供の頃は勉強が嫌いでしたが、なぜ、こんなに楽しくないことを教えられ、あげくにテストで順位を付けられ、なんだよ!もっとやりたいことあるのに、早く大人になりたいと思ってました。

もちろん、学校では友達を通してコミュニケーション力を付けながら会社生活を体験していくと場所としてはとても大切ですが、それを差し引いても、義務教育だけでも膨大な時間を使うのですから、もっと社会出ても役に立つ教育となって欲しいものです。

僕が学校教育に望むのは「子供たちの想像力を豊かにしよう」というようなことではありません。そこまでは望みません。子供たちの想像力を豊かにするのは、なんといっても子供たち自身だからです。先生でもないし、教育設備でもありません。ましてや国や自治体の教育方針なんかではない。子供たちみんながみんな、豊かな想像力を持ち合わせているわけではありません。駆けっこの得意な子供がいて、一方で駆けっこのあまり得意ではない子供がいるのと同じことです。想像力の豊かな子供たちがいて、その一方で想像力のあまり豊かとはいえない─でもおそらく他の方面に優れた才能を発揮する─子供たちがいます。当然のことです。それが社会です。「子供たちの想像力を豊かにしよう」なんていうのがひとつの決まった「目標」になると、それはそれでまたまた変なことになってしまいそうです。


個々の個性を伸ばす教育でないと、トップダウンで押し付けた教育では、時間が無駄になるだけでなく、伸びるものも伸びないことになります。

誰もが学校を通じて身を持って体験しているのに、昔ながらの学校教育は変わることなく今も続いています。

著者の村上 春樹 氏は、読書を通じて英文を読めるようになりますが英語の試験の成績は良くなく、学校の勉強のやり方に疑問を感じながら、結果として世界的な作家となります。

経営コンサルタントの大前 研一 氏は『「宿題やりなさい」などと言っているようでは駄目です。学校の先生の言いなりになるのではなく、子供に責任感、社会性、思いやりなどを教えながら、適性を見きわめてテーラーメイドの教育をすることが、子供の能力を引き出すことにつながります。』と指摘しています。

大学に入ることが目標になって、学校や塾に任せっきりではなく主導権は親が持って個々の能力、適性を引き出してやることが大切な時代になってきたと言えます。

一流大学を卒業してエリート街道を進んでた人がある日突然、脱線していくような話しが最近多いですが、どんなに勉強ができても責任感、社会性、思いやりがなくては、幸せになることはできないと認識しておく必要があるでしょう。

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