2017年10月23日月曜日

情報は人から与えられて安心するようでは危ない。自分で取りにいき磨いて活用するもの。



成毛 眞(著)『情報の「捨て方」 知的生産、私の方法』を読んでいます。

今やスマホでどんな情報も調べられる時代です。しかし、検索すれば何でも分かるので安心、安心、と思っているようじゃ将来が危ういのです。

ひと昔前なら、知識として多くのことを記憶していることが、立派だと思われていましたし、雑学を得られる情報誌も色々あって、買って手元にあるだけで安心したりしたものです。

また車でどこかに行くときも事前にルートやお店を入念に調べて頭に叩き込んでおいて、あたかも知っていたかのようなフリすらしていたこともありました。

そんなことも過去の話。

しかし、今ではスマホで検索していつでも調べたりできるし、ナビ代わりにもなるので安心と思っていると、自分の目で探す力や身の回りの情報を察知したり自分の頭の中で噛み砕いて情報を整理する力を退化させてしまいます。

毎日のように通っている道でも、パトロールしている気分で周りを見渡してみると、小さな変化が見られます。道路工事が進んだとか、ガレージに止まっている車が変わっているとか、その変化そのものは、大した情報ではないこともあります。しかし、大事なのはそれに気がつくこと、何かに気付こうとしてものを見ることの習慣化です。



何気なく歩いていてもスルーしてしまうか、目の前で見た情報をインプットして知識にしていけるかは、その人の力に掛かっています。

本来、知識は体験を中心として広げていったものでしたが、テレビやインターネットの普及によって変化してきました。

しかしそんな変化は、情報の質の向上と生活を便利にしまたが、本来必要とされてきた体験から得られる情報を自身の知識にする力を弱めています。

ひとつの情報は、独立した点として捉えない。
 その周囲にある情報からなる情報群の一部であると考える。
 こう心がけるだけで、情報を研ぎ澄ます、あるいは精度を高めるという発想が生まれてくるのではないでしょうか。  つまり、日々、見聞きしている情報はあくまで点で、大きな流れや構成の中の一部に過ぎないのです。



何気なく見たもの、本で読んだ情報ひとつひとつに対して自ら付加価値を与えて自分自身の情報に転換できるかが、今の情報社会を生き抜く為に必要です。

学校で習った国語や歴史自体も一つの情報と考えると国語力と歴史力と結んで磨きあげて発信してこそ本当の学力だと思います。歴史の先生も国語の先生もそのようなことは教えてくれませんが、これからの未来を生き抜く為には必須な力なのかもしれません。

より遠くの点を線で結び、面を作ることで、これまでは知り得なかった情報を手に入れられたり、思いつきもしなかった仮説を立てられたりするようになるでしょう。他の人では結びつけられないような、Aという情報の点と、Bという情報の点をつなげられるようになるのです。それはすなわち、他の人からは生まれない、オリジナルのアイデアに結びつきます。



より遠くの点や違うジャンルの点を結びつけることでこれまで見たことのない情報やアイディアに発展することができます。
 
そう言った力を強化していけるか、そのまま人からの情報を聞いて終わるかでその人の未来は変わってくるでしょう。

情報を磨き上げて自身のために活用していくことができれば、それが未来を変えていく力になることは間違いありません。

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